■書名:三の隣は五号室
■著者:長嶋有
■出版:中央公論新社
■定価:1,400円+税

誰かが次に住むということは、前の人が出ていったということだ。このように五号室に全員がやってきて、去った。

ハッとした。賃貸住宅には入れ替わっていく人々の人生が詰まっているのだ。

長嶋有『三の隣は五号室』は、50年以上の間に第一藤岡荘の五号室に住んだ13組の住民・家族の様子を描いた小説だ。住民それぞれには面識や繋がりはなく、共通点はただ一つ、「人生の一部の時間を第一藤岡荘5号室で過ごした」ということのみだ。

入居したとき、大半の住民が五号室を「変な間取りだ」と思った。しかし一方で、「機能的で合理的だと率先して評価した」夫婦もいた。寝床を4畳半の間にする者がいれば、6畳間にする者もいる。台所で就寝していた住民もいた。そこで子供が生まれた家族がいれば、単身赴任の身で、全く生活に頓着がない住人もいた。壁に張られているシールには、必ず張った住人がおり、後年そのシールを見て思いを馳せる別の住人がいた。こうして顔を知らない者同士が、そうと気付かずに弱く繋がっていることが印象的だ。

なかでも、心を打たれたのは85年~88年まで暮らした六原夫妻だ。
高層マンション型の公団に住み替えるまでの仮住まいのつもりで、五号室にやってきた。しかし公団の抽選には外れてしまった。そして妻・豊子の肝臓に腫瘍が見つかる。

夫の睦郎は、豊子の通院に必ず付き添う。ある日、二人で駅の近くにある総合病院に向かっている最中に、診察券の入った鞄を部屋に忘れてしまったことに気づく。睦郎は豊子を待たせて取りに引き返した。しかし、なかなか戻ってこないため、豊子も戻ってみると、シンクの前に立った睦郎が一人泣いていた―。

豊子との時間が残り少ないことと同時に、藤岡荘五号室での慎ましくも幸せな生活が僅かしかないことを物語っている。

六原夫妻の次の住民は、そういった経緯も出来事も知らずに別の生活を始める。読者には様々な面影が残る部屋でありながら、全く違った生活が営まれていく。

物語は、住民を俯瞰した定点観測だけで語られているわけではない。普段は意識しないような、たとえ意識したとしてもすぐに忘れてしまうような住民の心の機微も巧みに表現されている。

95~99年まで五号室に住んだ九重久美子は、入居初日にガスの元栓についている3センチほど残っていたゴム管を引き抜こうと奮闘していた。しかし、どんなに力を込めて引っ張ってもゴム管は抜けない。10分以上もの時間、何回も引き抜こうと繰り返す中で久美子は思う。

人生にはしばしば、そういう時間がある。誰からも語らないし誰からも語られることもないが、あるはずだ。~略~あらゆる苦闘を「人生の時間」と、誰も思っていない。だけど、仕事や恋愛や、何か大事な時間を経たのと「同じ」人生の時間上にそれらのこともあるはずだ」と。我々も、ふとした時に哲学的な物思いにふけるときがある。そういった読者が共感したり、「あるある」と感心させられたりする表現が随所にある。

藤岡荘の50年以上もの歴史を振り返りながらも、大河ドラマのような壮大な視点で人々が描かれているわけではない。あくまでも、住民一人ひとりにフォーカスしているからこそ、親近感が生まれ愛おしく感じるのだ。

今住んでいる部屋の前の住民に思いを馳せることはあれど、実際にどんな人が住んでいて、どういった生活を送っていたかを知るすべはない。

本書は、賃貸住宅に住んでいる人のそういった妄想を覗き見るような、また普通の人が普通の生活や人生を送っているなかで、わずかだが互いに作用しあっていることを改めて教えてくれている。

(敬称略)

 
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