9月23日はスーパーマーケット「ダイエーが開業した日」だ。

ダイエーの創業者である中内功が大阪市・千林商店街に、後にスーパーのダイエーとなる「主婦の店・大栄薬局店」を1957年の本日、開業した。

元々、家業だった薬局店を発展させた。薬品だけでなく、日用品や衣料品の取り扱いを始め、店舗名も「主婦の店ダイエー」に変更し、ここからチェーン店展開を始めることとなる。

千林商店街 (画像=フォトライブラリー)

ダイエーは、スーパーマーケットの先駆けとして現在の小売業界に多大な影響を与えた。中内はダイエーを通じて、今では当たり前になっている、問屋や卸売りをカットして、メーカーから直接仕入れる、消費者主体の流通システムを構築した。さらに、メーカーの希望小売価格を無視して安値で販売する手法を押し進めた。

「見るは大丸、買うはダイエー」というキャッチコピーを使い、安売りを武器に他店との差別化を図っていた。しかし、当時はメーカーが提示する価格での販売が当たり前だった時代だ。

ダイエーの流通戦略を良く思わないメーカーは製品の出荷停止といった、様々な圧力をかけていく。中内はそんな圧力には屈せず、「価格破壊」の言葉とともに、店舗を全国に拡げていったのだ。

中内は流通戦略の他にも革命を起こしていく。その一つがプライベートブランド(PB)である。小売会社が自社で商品を作り、メーカー製品よりも安く、消費者に提供していった。メーカーの製品がなければ小売業は成り立たないという構造すらも変えていったのだ。

やがてダイエーのPBを始め、家庭にはダイエーで買った商品が並ぶようになる。

こういった革新的な行動の原動力は、自身の戦争体験にあるという。中内は太平洋戦争従軍中に、物資不足による飢えに苦しんだ米軍と日本軍との物量の差を痛感したという。

国民誰もが物質的豊かさを享受することが幸福につながると信念を持ち、そのために流通を変革することに使命感をもって取り組んだのだ。まさに日本中の家の中をモノでいっぱいにする夢を生涯、追い求めたといえよう。

一方で、強引な手法や、社員に凄まじい仕事量を要求し、何もかも独断で推し進める姿勢には批判も多かった。そして、バブル崩壊以降の消費者動向の変化についていけず、ダイエーと中内の勢いは凋落の一途をたどる。2001年には「消費者が見えなくなった」としてダイエーの全役職を退任する。以降の晩年は寂しいものだったと伝えられている。

中内の生涯についてはノンフィクション作家の佐野眞一が記した「カリスマ 中内功とダイエーの戦後」に詳しく、中内が2005年に死去した際には佐野に多くのテレビ番組から出演依頼がきたという。そして、そのほとんどが中内を好意的に取り上げたものだった。佐野は「中内功は、こんなにも消費者に愛されていたのか」と驚いたという。

徹底的な取材で知られる佐野をもってしてでも、中内の全容は計り知れなかったのだろうか。大阪の商店街から始まった中内の夢はそれほどに巨大だったのだろうか。

敬称略

 
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